みかんと干鰯とお醤油のお話

ところで、和歌山県有田の湯浅が日本の醤油の発祥の地であることをごぞんじでしたか?えーなんだ、みかんの話じゃなかったの?
醤油の話でもするのと言われるかもしれないのですが、みかんの話と醤油のお話は、一脈相通づるところがあります。
醤油なんですが
信州(長野県)の禅僧覚心(法燈国師)が鎌倉時代に宋の国(中国)の径山寺(きんざんじ)で修行のかたわら金山寺味噌の製法を習得しました。
帰国後、紀伊の国由良(現和歌山県日高郡由良町)で西方寺(現興国寺)を開き、金山寺味噌の製法を教えました。
金山寺味噌、皆さんご存知ですよね。
ちょっと甘めであったかいご飯に乗っけて食べると美味しいです!
この金山寺味噌の上澄み液で煮物をつくったところ大変美味しかったので、これから日本で最初に醤油造り(溜まり醤油)が始まったとされるものです。
それから、300年たった1580年頃、紀伊の国 湯浅の玉井醤油が商業生産を始めたとされます。
肥後の国八代から有田にみかんがもたらされたのが1574年でしたから年代としても極めて近いです。
 
その後、醤油の製法が紀伊の国有田郡広村の浜口儀兵衛によって房総半島の銚子に伝えられて、正保2年(1645年)に銚子で醤油の製造が始まりました。
これが、「ヤマサ醤油」の始まりです。
この技術移転を支えていたのが、紀州有田の優れた航海術と紀州有田の人達の開拓精神にあります。

みかんについても、前回みかんよもやま話12でお話したように、寛永11年(1634年)に初めて、瀧川原村(現有田市宮原町滝川原)の藤兵衛という人が400籠(1籠:4貫目15Kg)ばかりのみかんを荷造りして江戸への廻船に頼み江戸に送りました。
当時、江戸であれ、銚子であれ黒潮に乗って航海をするのは大変、危険なことでした。
 
▼この辺の事情について
和歌山県有田の郷土史家のお話をお伺いする機会がありました。
 
【郷土史家のお話から】
紀伊の国 有田郡広(ひろ)(現和歌山県有田郡広川町広)の漁民は、古来、航海術と港湾土木技術に優れていたそうです。
 
江戸時代初期
五島列島にある奈良尾(現長崎県南松浦郡奈良尾町奈良尾)と房総半島の銚子にある戸川(現千葉県銚子市外川町外川)の漁業港湾都市を日本で最初に作ったのが「広」の漁民とされています。
長崎県の奈良尾には、広出身の漁民の墓が150ほど残されており今でも、町を造った功労者として町指定の文化財として大切に管理されているそうです。
千葉県の銚子の戸川は、万治元年(1658年)広出身の碕山治郎右衛門が広の漁民を引き連れて日本で最初の漁業港湾都市を造りました。
なぜ、紀州有田の人達が結果として銚子に醤油造りを教え、港湾都市を造り、五島列島奈良尾に移住したり危険を顧みず江戸にみかんを送ることができたのでしょうか。
それは、干鰯(ほしか:干した鰯)だったのです…………

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