危険な鰯漁

今回も和歌山県有田の郷土史家さんのお話から、有田郡広の人々をつき動かしていたものは干鰯(ほしか:干したいわし)だったのです。
干鰯(ほしか:干したいわし)って聞いたことがありますでしょうか?
うーん 干した鰯かあー……
煮干しとどう違うの?
あーそーか、煮干しって 鰯を煮たやつね!
違うなー………
何に使うんだろうと思ったんですが、これが”肥料”なんです。
いわゆる”魚肥”なんだそうです!
なぜ、鰯で魚肥? と思うのですが、これは、棉(わた)を作るために必要だったからです。
 
さらに
【和歌山県有田の郷土史家さんのお話から】
室町時代に中国から日本へ棉(わた)がもたらされました。
当時の日本の衣服は、麻が中心で保温性に乏しく、その点、棉(わた)から作られる木綿は大変暖かなんです。
そのため、棉(わた)の需要が一気に高まりました。
最初は、大阪の河内地方でいわゆる「河内木綿」が作られました。
棉栽培は、米を作るよりも収入が多かったため、農家がこぞって品質の良い綿を作るようになりました。
その後、干した鰯を肥料にすれば良質の綿が得られることが分かり、一気に干鰯の需要が高まったのです。

最初は、今の関西空港対岸あたりの泉佐野の漁民が主に、泉州沖、瀬戸内海で「鰯漁」を行なっていました。
ほどなく、紀州の加太、下津、栖原、湯浅、広の漁民たちがこぞって「鰯漁」を行なうようになりました。
当時、九十九里浜から房総半島にかけて大量の鰯がとれていました。
航海術に長けていた湯浅、広の漁民たちは遠く房総沖まで出かけて鰯を取っていたようです。
さらに、北海道千島列島あたりまで鰯漁を行っていました。
命がけで”鰯”を取り、”鰯”を大阪に持ち帰り財を成す人があらわれました。
鰯漁は危険を伴います。
船底、板一枚の命です。
鰯で財を成した人の中でこの様な危険な鰯漁を避けて、新たな事業を試みる人があらわれました。
折しも、紀州有田郡広川村の崎山治郎右衛門が、房総半島銚子の戸川(現外川)に漁業港湾都市を作り、紀州有田郡広の漁民が移住していました。
江戸は銚子から遠くない距離にあります。
大消費地の江戸をにらんだ商材は何かないかと思って運んだのが「湯浅の醤油」 だったのです。
当時、醤油は「下り醤油」と言われ大阪から江戸へ運ばれていました。
その後、紀州藩有田郡広の浜口儀兵衛が房総半島銚子で”ヤマサ醤油”を興しましたのは、前回お話した通りです。
 
同じように、紀州有田のみかんも「江戸」と言う大消費地を踏まえて育んだ商材だったのです。
紀州有田から出た醤油、みかんという産品が、実は干した鰯が起点となって展開されたものだったのです。
歴史とは、人の営みの繋がりでしょうが、干したいわしが、人を作り、歴史を作り、風土、文化を育んで行ったのでしょうか…………….

カテゴリー: みかんよもやま話 パーマリンク