稲むらの火

ところで、皆様は「稲むらの火」というお話をお聞きになったことがありますでしょうか。
最近、頻繁に取り上げられていますのでご存知の方も多いと思いますが、このお話は、今まで話して来たお話に多いに関係しています。
 
【稲むらの火】から
とある海辺の寒村に五兵衛という庄屋が住んでおりました。
五兵衛の家は海辺の高台にあり、村人400有余の住居を見下ろせる位置にありました。時は、稲の収穫を終わり、村人は秋まつりの準備に忙しくしておりました。
ある日の夕暮れ、突然、うなるような地鳴りと長くゆったりした揺れを感じました。
災害をもたらすものでもなかったのですが、五兵衛は、今まで経験したことのない感覚に言いしれぬ不安を覚え、思わず家を出て外の様子を窺いました。
眼下の村々では、先ほどの地震に何の意も介さず、秋祭りの準備をしております。
ふと、目を海の方に転じて五兵衛は立ちすくんでしまいました。
波が沖へ沖へと寄せてゆき、見る見る内に海の底があらわになり、砂浜、岩床が現われています。
「大変だ 津波がやって来るに違いない」
このままでは、村人400有余の命が危ないと思った五兵衛は家に駆け込み、大きな火のついた松明(たいまつ)を持ち出し刈り取った自分の稲むら(稲束の山)に火を放ったのです。
火は折からの風にあおられ赤々と燃え盛り、それにも関わらず、五兵衛は、次から次へと自分の稲むらに火を放ちました。
日はもう落ちて黄昏ており、稲むらの火は天をこがし、その火に気付いた山寺は早鐘を打ちならしました。
やがて、20名程の若者が五兵衛の家めがけ駆け上がってまいりました。

五兵衛は
「捨て置け 村人全てに集まってもらうのだ」
と言い放ちました。
1年の収穫が目の前で赤々と燃え盛り、若者達は呆然と立ちつくしています。
「庄屋さんの家が火事だ!」
と村人が総出で五兵衛の家まで駆け上がって来ました。
五兵衛は、上がってきた老若男女を一人ひとり数え始めました。
村人400有余は身じろぎもせず、声一つなく燃え盛る稲むらの火を見入っています。
ほどなく、寒村に大きな津波が襲い、村人の住居をあとかたもなく流してしまいました。村人400有余は、この時初めて、村人の命を守るために、五兵衛が収穫したばかりの自分の稲むらに火を付けたことを知ったのです。
(※原文ではなく、内容を要約しています。)
 
このお話は昭和12年から昭和22年の小学校の国定教科書に掲載されておりまして、原文を読まれた方もおられると思います。
私は、まだ生まれておりませんでしたが………
この五兵衛に実在のモデルがおりまして、これが紀州有田郡広川村の浜口梧陵(浜口儀兵衛七代目)なのです。
この浜口梧陵は、正保2年(1645年)銚子でヤマサ醤油を興した浜口儀兵衛の子孫なのです。
地元の和歌山県有田郡広川町では、誰もが知っているお話です。
このお話は安政元年(1854年)11月4日と11月5日の両日にまたがって起こった安政東海道地震、安政南海道地震でのお話です。

本当のお話は11月5日の安政南海道地震で津波にあった被災者が暗闇の中、安全な場所の方向を見失わないように、浜口梧陵が路傍の稲むらに火を放って村人の安全を確保したのが事実です。
当時の浜口梧陵の行動は、これに止まらず被災者の食料確保のため自分の米を供出し、付近の資産家から米の寄付を求め隣村の庄屋を訪れ、「全ての責任を自分が負う」として隣村の紀州藩への年貢米を借入を行なうなど、勇気ある行動を行なっています。
 
その他、自警団を編成して被災した村人の家財の盗難を防ぎ、被災して職を失った村人のために、道路の復旧作業を行い、失業対策に努めるとともに、困窮者のための無料宿泊施設を私財を投じて建設して提供したとのことです。
さらに、浜口梧陵は紀州藩の許可を得て4年の年月をかけて防災堤防を建設して村人の職の確保を行い、村人の離村を防いだのです。
この広村堤防は現在でも健在で1944年12月7日の昭和東海道大地震1946年12月21日の昭和南海道大地震でも津波から広川町を守ったとのことです。
この話を小泉八雲(ラフカディオ ハーン)が伝え聞き1897年にボストンとロンドンの出版社から同時出版した「仏の畠の落穂」(Gleanings in Buddha-Fields)の中で「生ける神」(Living God)として紹介し、このくだりを広川町の小学校の教員である中井常蔵氏が編纂して「稲むらの火」として国定教科書に掲載されています。
いつの時代でも、人は困難な状況に遭遇いたします。
その状況がどの様な形であれ、これを乗り越えて行く人が現れます……………..

カテゴリー: みかんよもやま話 パーマリンク