紀州みかんと紀伊国屋文左衛門

みかんよもやま話の第1話からお話は大きな流れとして、日本固有のカンキツは「タチバナ」だけで、後は全て外国から導入されたものであるということでした。
これにより、1600年まで歴史を下ってまいりましたが、この1600年前後は、みかんが商品として発展した時期であり、少し、寄り道をいたします。
 
と言いますのは、私が、和歌山有田の有田みかんを取り扱っていますので、どうしても、有田みかん即ち紀州みかんのお話をしたいからです。
 
■紀州みかんのお話
みなさんは紀州みかんと聞けば、「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀州のみかん舟」と言われた「紀伊国屋文左衛門」を思い起こされるのではないでしょうか。
これを史実に基づいて追いかけて見ましょう。
 
◇紀州みかんですが、現在、皆さんが冬になって召し上がるおみかんの種類とは異なっています。
現在、皆様がご覧になるとすれば、お正月の鏡餅に乗せる小みかんや「しめ縄」に飾られる小みかんが紀州みかんです。
この小みかんが寛永11年(1634年)に江戸で大ブレイクしてから、明治の中期まで日本のおみかんの中心でした。
この1600年頃には既に、鹿児島県の長島で温州みかんが偶然に自然発生していたのですが、まだ、人々に消費されるに至っていません。
なぜかと申しますと、江戸時代は、種のないみかんは「種なし」として忌み嫌われたからです。
温州みかんは種が少ないのでその意味で余り食べられなかったのでしょう。
紀州みかんは小みかんのくせにと言っては何ですが種が一杯あります。

前置きが長くなりました。
 
◆紀州みかんについていろいろな文献が残されていますが、最も信頼される文献として「紀州蜜柑伝来記」があります。
※引用文献【紀州蜜柑伝来記】 日本農書全集46 農村漁村文化協会
原本は、亨保19年(1734年)有田郡中井原村(現和歌山県有田郡金屋町中井原)の中井甚兵衛が記し、天明8年(1788年)に江戸の蜜柑問屋西村屋小市が筆写して、亨保19年(1734年)から天明8年(1788年)の間の江戸における蜜柑問屋の変遷についての記録を「覚」として書き足したものです。
 
「覚」から
有田郡の蜜柑は、天正2年(1574年)に肥後の国八代(現熊本県八代市)から苗木を手に入れ、初めは宮原(現有田市宮原町)、糸我(現有田市糸我町)の庄に植えたところ、土地によく合い、その風味も良く、色、香り、形も他国のものより優れていたため、次第に村々へ植え広められました。
この事情について和歌山有田で400年間みかんを作り続けて来たみかん農家さんにお聞きした話を付け加えて、糸我の庄に伊藤孫右衛門という里正職(村長)がおりました。伊藤孫右衛門の家業は農業で、勤勉努力家であり人々の信望が厚い人でした。
その当時の有田は山が多く水田が少ないため、米作もできず極めて貧窮な土地柄であったそうです。
伊藤孫右衛門は、この有田を何とか豊かにしたいと常々思っていました。
その折り、肥後の国八代で蜜柑の樹があり、その樹は山地でも良く成育してその実も美味しいのでよく売れるという話を聞き及んだのです。
孫右衛門は、何とかその蜜柑の樹を手に入れたいと思ったのですが、当時、各藩の特産物は門外不出であり、他藩との交易も許さず、蜜柑の樹の入手は不可能でした。

孫右衛門は、その里正職(村長)という役職から、時々、若山(和歌山)の上司宅に勤務しておりました。
孫右衛門は蜜柑の樹が有田の窮状を救うかもしれないと上司に訴え、何とかこの蜜柑の樹を入手したいと懇願いたしました。
しかし、当時は、各藩の特産物管理は厳しく、そのため上司は困惑したようです。
しかしながら、孫右衛門の度重なる請願に遂に上司も心を動かせられ、孫右衛門に一通の書状を書き与えました。
それは
「蜜柑の樹を所望するは、殖産にあらず盆栽なり。花実の美を愛でるにありて、数株恵与されたい。」とありました。
その書を携え、孫右衛門は肥後の国に赴き二株の蜜柑の樹を入手したのです。
当時は、今のように交通手段が発達しておらず、蜜柑の樹を有田まで枯らさずに持ち帰るのは困難を極めました。
とうとう、孫右衛門は二株の蜜柑の樹を持ち帰り、一株は上司宅へ、一株は郷里の糸我の庄に植えたのです。
折からの長旅ゆえに、上司宅の一株は枯れてしまい、糸我の庄の一株も枯死寸前でありましたが、孫右衛門の必死の手当てにより息を吹き返し根付いたのです。
一株の蜜柑の樹では、殖産にはなりません。
孫右衛門は、たちばなを台木として接ぎ木を試みこれに成功しました。
接ぎ木により増殖された蜜柑の樹に結実した果実は色、香り、味の全てが他に類するものはなく孫右衛門の熱意とみかんの実のすばらしさに村人も心を打たれました。
孫右衛門は村人達に栽培方法を教え村人達もこれに習いました。
やがて、周辺の村々にも蜜柑の樹が植えられ、一つの産業として成長して行きました。
お聞きした和歌山有田のみかん農家のご先祖も、慶長7年(1602年)からみかん作りを始めたとお寺の過去帳に記されているとのことです。

孫右衛門のプロジェクトは、紀州みかんが江戸で大評判となる寛永11年(1634年)を遡る60年前の出来事だったのです………

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