紀州蜜柑伝来記とみかんが江戸で大ブレイク

さらに 紀州蜜柑伝来記より続きます。
※引用文献
【紀州蜜柑伝来記】 日本農書全集46 農村漁村文化協会
 
原本は、亨保19年(1734年)有田郡中井原村(現和歌山県有田郡金屋町中井原)の中井甚兵衛が記し、天明8年(1788年)に江戸の蜜柑問屋西村屋小市が筆写して、亨保19年(1734年)から天明8年(1788年)の間の江戸における蜜柑問屋の変遷についての記録を「覚」として書き足したものです。
 
「覚」から
伊藤孫右衛門が村人達に紀州みかんの栽培方法を教え、それが、近隣の村々に伝わり栽培されるみかんの樹も年々増加いたしました。
慶長(1596年~1614年)の初め頃には小舟に積んで大坂(大阪)、堺、伏見に出荷するようになっていました。
これらのところへは、山城の国(京都府)からみかんが出荷されていましたが、紀州有田のみかんは格別に優れていましたので高く売れたようです。
そうこうしている内に、 寛永11年(1634年)に瀧川原村(現有田市宮原町滝川原)の 藤兵衛という人が400籠(1籠:4貫目15Kg)ばかりのみかんを荷造りして江戸への廻船に頼み、他の荷物と積み合せて江戸に送りました。
これが、紀州みかんが最初に江戸に送られた記録です。
藤兵衛は、江戸に到着してあちらこちらに問い合わせを行い、京橋(現東京都中央区京橋)の新山屋仁左衛門という果物屋を問屋に頼み、みかんを取り扱う仲買人を集めてみかんの販売を開始しました。

当時、江戸には伊豆(静岡県)、駿河(静岡県)、三河(愛知県)、上総(千葉県)の国々からみかんが出荷されていましたが、紀州有田のみかんと比べれば到底及ばないものでした。
紀州みかんは、甘さに加えてほどよい酸味を持ち赤みを帯びた黄金色で自然な良い形であったため、江戸の町で大評判になってしまいました。
お金持ちから貧乏人にいたるまで、紀州みかんを求めた結果、みかん1籠半(6貫目22.5Kg)を金1両 の価格で売り尽くしたとのことです。
当時の金1両の価値はどれ位あるのかなと思って調べて見ましたが、これがなかなか大変でした。
 
※参考文献
小野武雄 江戸物価事典 展望社 日本史資料総覧 東京書籍 週間朝日編 値段史年表 朝日新聞社
 
当時、江戸時代には貨幣として、金貨(両)、銀貨(匁)、銭貨(文)が 流通していましたが、それぞれが別々の貨幣価値を持っていたようです。
すなわち、日本国内に、円、ドル、ユーロの通貨が流通しているようなものです。
また、寛永11年(1634年)と平成25年(2013年)では、存在している商品・サービスが異なりますので、一概に物価を比較できないようですが、片目をつぶって、えいやっと お米の値段で比較しますと
●1630年頃のお米1石(約150Kg)の相場   銀25匁
▼1630年頃の銀1匁の相場(対銭レート)   60文
◆1630年頃の金1両の相場(対銭レート)   3.6貫文(3,600文)
よって
☆金1両の相場              銀60匁

すなわち、金1両で2.4石(約360Kg)のお米が買える計算です。
今、お米1Kgが500円としますと金1両は、約180,000円ということになります。藤兵衛は、みかん6貫目(22.5Kg)を金1両で完売したとのことですから
みかん22.5Kgが180,000円となり1Kgあたり8,000円です。
おみかん5Kg箱が 40,000円です!
私も400年前に生まれたかったなー…..!!

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