300年以上も前から密かに作られていたみかん

mikan-photo06みかんよもやま話の大きな流れは、日本のかんきつ類の原生種はタチバナだけで、その他全ては外国から導入されたものであり、その導入を歴史的文献によって検証するものでした。
1600年頃まで時代を下ってまいりましたが、1574年の紀州みかんのお話からかなり脇道にそれて、紀州有田郡の歴史的風土、輩出した人材のお話をいたしました。
ずいぶん脇道にそれてお話しましたので、今一度確認いたしますとみかんよもやま話1〜15話までの構成は次のとおりでした。

以前にもお話いたしましたが、江戸時代初期から明治初頭に至るまで日本のみかんは、紀州みかんが主流でした。

紀州みかんは、現在皆さまが食べられる温州みかんとは異なります。
紀州みかんより小さくて種がたくさんあります。
味は濃くて甘くて、果実が小さいことと種が多いことを除けば美味しいものです。
皆さまが一般的にご覧になる場合、お正月のしめ縄に飾られる小さなみかんです。
ところが、紀州みかんが江戸で大評判になった江戸時代初期にはすでに、温州みかんは発生していたようです。

柑橘に関する世界的権威である、故田中長三郎先生は長年のフィールドワークの結果から、温州みかんは江戸時代の初期に、鹿児島県出水郡長島(現東町)で中国からもたらされた「早桔」か「慢桔」又は「天台山桔」系統の柑橘から偶発実生したものと推定されました。
昭和11年(1936年)に鹿児島県果樹園芸試験場岡田康雄氏が、鹿児島県出水郡長島(現東町)の山崎氏の畑で樹齢300年を超える温州みかんの古木を発見して、田中長三郎先生の推論が正しいことが実証されました。
この古木は接ぎ木されていましたので、温州みかんの発生は300年を大きく超えるものと考えられています。
温州みかんは、その果実の大きさ、味、種が少ないことの食べ易さから、商品価値として紀州みかんより優れています。
紀州みかんが、伊藤孫右衛門によって、肥後の国八代(現熊本県八代市)から紀州有田にもたらされたのが1574年ですから、少し時代が下がっても温州みかんが紀州有田に限らず各地にもたらされてもおかしくないはずです。
温州みかんが一般的にならなかったのは、種子がないからだと言われています。
有吉佐和子の小説「有田川」に記載がありますように
「種子なし」は、種子がないため子供ができず、家が続かないと言う迷信で忌み嫌われていたからでしょうか。

明治に至り、根拠なき迷信が薄れるに従い、その品質の良さが認められ各地で生産されるようになっています。
温州みかんは長島では「長島蜜柑」と呼ばれ、別名で「李夫人」(リュウリン)とも呼ばれていました。

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